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秋のすえに

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湿気た風吹かない寒くはない道路
夢に会う我を君と呼ぶひとのふみ
香によってつくられし漆黒の像うすい夕暮
照らされた古い塔を見る泣かないで
この冬は懐中しるこの粉のように
固いビスケットアーモンドの粒歯にあたる
猫抱くように缶コーヒー抱き宿に着く
 
 
 
 

 

 

向かう人々 2

1はこちら→向かう人々 1 - 無響サイレン

 

 

 次の日は休みではないから休みでないときのいつもを過ごす。仕事場のトイレで昨日のことを思い出していた。でも自信がなかった。言葉を交わしていないだけでなぜこんなに自信がなくなるのだろう。あんなに近くに居て十分な時間を過ごしたのに、視線を交わしていない、言葉を交わしていない、それだけであれはどこかで読んだ話とか観た映画とかと変わらないものになる。頭の中だけにある記憶の中で、ある人と居たことの記憶を構成するには、その時点でたくさんの知覚を掴んでいないとすぐにばらけていってしまうんだろう。もしもう一度会えたら昨日のこともあったことになる。でもその次の時もまた目が合わず会話をせず、であったなら。それはそれで楽しいのかもしれない。意志疎通がとれない、ショッピングモールで会える生きてる幽霊。

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向かう人々 1

 手の内の文字を追っているうちに眠くなって自然にまぶたが下がり、開き、再び読み始めると、眠たいのに目をつぶる前まで読んでいたところは、ここは読んだとはっきりとわかる。読んでいた場所はすぐには探せないのに、文字を追うと読んだところとまだ読んでいないところの境目は、はっきりと、ある。そのことはいつだってすごく不思議で、内容は頭に入らなくても、読んだ、ということは分かる。読む前にはもう戻れない、と芯から眠い頭で考える。土日のショッピングセンター内のドーナツショップなんて、家族連れが多く、騒がしいのに、本を読んで眠くなる。逆にうるさいから眠くなるのかもしれず、あちこちで同時に起こる会話はそれぞれの内容は聞き分けられることなく、単なるさざめきとして耳に入ってくる。目が勝手に閉じ、開いて、続きを探してああここからだと見つけたとたんにまた目が閉じてしまう。そんなことを2、3回繰り返してから観念して本を閉じ、半分食べかけのドーナツとコーヒーカップの乗ったトレーをテーブルの自分から遠いところへ押しやった。しばらく寝ようと腕を組んで、首が痛くなるかもなとちらりと考えながらも下を向いて目を閉じた。騒がしいので、片隅で余計なことを考えつつ眠る、目を閉じる前に見えていた景色を少し思い出す。景色を思い出すと目にも意識がいくのか、目蓋のうらに、赤くもやもやとした景色が浮かぶ。右斜め前に座っている小さい男の子はずっと同じ姿勢で眠っていた。首が、心配になるくらい頭が横に傾いていた。向かいのテーブルに座っている十代の多分高校生な女の子は私も読んだことのある本を読んでいた。そんなことを考えているうちにいつの間にか完全に寝ていた。

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cocoon おぼえがき

 

 

2015  8/2   マームとジプシー cocoon おぼえがき

 

 

その事実ではなく、まず物語として、

 

接続が夢、私たちがみる夢、みている夢
夢で、昔あったことをなぞる。
夢なのにかつてあったことと思う。
教室のうるささと戦場でのうるささの声の主は一緒、喋り声と叫び声と
夜にも走っただろうし、真昼にも走っただろう
明るいところ、白昼に、砂上を

そのことは日に晒されるまで気付かなくて、彼女たちはライトの下で走っていたから、

少し考えればわかることなのに、想像が、およばない。そのことを恥じて。

もう向こうから見つかっているのは知っていて、よけて、逃げるしかない。
こと切れた友人たちは、ほとんどものとなって、そこらに、
いつの間にか無くなっている、忘れてしまったりもする。
あの子の顔がどんなだったか、みんな覚えているだろうか
これから知る人の居なくなる出来事を、物語で再生する。
未来の人がみて、それが、そこで、どこかでの/どこかであった現実として立ち上がってくるくらいに物語は強度を持つだろうか。 

島の小屋のタイプライターから

「書かれた言葉は弱い。多くの人は人生のほうを好む。人生は血をたぎらせるし、おいしい匂いがする。書きものはしょせん書きものにすぎず、文学もまた同様である。それはもっとも繊細な感覚—―想像の感覚、想像の聴覚——そしてモラル感と知性のみに訴える。あなたが今しているこの書くということ、あなたを思いっきり興奮させるこの創作行為、まるで楽団のすぐそばで踊るようにあなたを揺り動かし夢中にさせるこのことは、他の人にはほとんど聞こえないのだ。読者の耳は、大きな音から微かな音に、書かれた言葉の想像上の音にチューニングされなければならない。本を手に取る普通の読者には、はじめはなにも聞こえない。書いてあることの調節状態、その盛り上がりと下がり具合、音の大きさと柔らかさがわかるには、半時間はかかる。」

「なぜ人は、大きなスクリーンで動きまわる人間たちを見るのではなく、本を読むのか。それは本が文学だからだ。それはひそかなものだ。だが、われわれ自身のものである。私の意見では、本が文学的であればあるほど、つまりより純粋に言葉化されていて、一文一文創り出されていて、より創造力に満ちていて、考え抜かれていて、深遠なものなら、人々は本を読むのだ。本を読む人々は、とどのつまり、文学(それが何であろうとも)好きな人々である。彼らは本にだけあるものが好きなのである。いや、彼らは本だけがもっているものを求める。もし彼らがその晩映画を見たければ、きっとそうするだろう。本を読むのが嫌いなら、きっと読まないだろう。本を読む人々はテレビのスイッチを入れるのが面倒なわけではないのである。彼らは本を読むほうが好きなだけだ。そもそも本を読まない人々に気に入ってもらおうとして何年も苦労して本を書くなどということ以上に悲しい試みがあるだろうか。」

第二章 「ひそやかな心細いもの」『本を書く』 アニー・ディラード 1996 パピルス

 

『石に話すことを教える』は小説であった。完全な感覚でとらえられた事実は完全な小説になる。

『本を書く』の原題は『The Writing Life』

 

 

 

 

言い切ってはいけない、もっと迂回しなくては

意味をすべて引き連れていかなくては

遠くを見るために止まらず

もう仕様がないからここを肯定して

 

 

何故と問われたら世界との接点だからと

私を引き止めたものに敬意を

 

 

線を引く時にはひとりで

1階と3階

 そこはもともと3階建てで、もちろん1階と2階と3階があった。今は2階がなくなって、とても高い天井というか吹き抜けな1階と元のままの3階があるだけだった。大ざっぱな工事でただ2階の床や柱を取り払っただけのようだった。それは、もうそこが日常的に使用される場所ではなくなったからで、倉庫として使われるようになったからだった。

 今、そこにあるエレベーターは2階に止まるけれど降りることはできない、何もないところで停まる。何もないというかエレベーターのある周辺の床だけが残っていてあるところでいきなり途切れている、その床の断面は1階から見える。2階の壁についてた内線電話はそのまま残っていて、3階は線が切られているのに2階はそうではないから1階から電話をかけることができる。でもそれは当たり前だけど鳴るだけで、誰も取ることができない、音は1階中によく響く。そういったものが残っているせいか2階の床のあったらへんにはその床の気配みたいなものがあって、1階にいるとありもしない天井がまだあるような気がしてくる。3階の床の下は元の2階の天井だったけれどそのことはあまり気にかからない。1階も3階も、ほとんど人は来ないから前よりずっと静かになった。音はよく響くようになった。窓の外側にはシャッターがついているけれど1カ所鍵がかかっていないところがあって、それを見つけた女の子が積んである段ボールに座って歌を歌っているのを聞いた。電気がついていない中でその一つの窓からだけ光が入ってきていた。2階に電話をかけたくなった。