好きなものは何度言っても構わない

たまにはここにも本のこととか書いてみます。前に書いたけど消した!

今年読んだ本でよかったもの

・『ノーライフキングいとうせいこう

・『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ

・『沈黙/アビシニアン』古川日出男

・『プラトニック・プラネッツ』雪舟えま

・『死んでしまう系のぼくらに』最果タヒ 

 

ノーライフキング』はもうずっと気になる、つくりごとがある人たちだけに本当/現実になってしまう、その見方で周りを見るといろんなものにいちいち意味が宿り出す。そう考えるとありとあらゆるものは嘘とか本当とかぐだぐだだしそんなものどっちだっていいと思う、自分の現実は自分が本当と思ったものだから当人にとってしか意味の無いもの。

 

身体性を持たない、現場を知らない、そう言われました。
その通りです。
私は大きな物語が終わってから生まれました。私が暮らすのは物語終演後のステージセットの中。私に役割はありません。
私の行為が全体に寄与することはありません。私の行為が外部から位置づけられることはありません。
どんな真剣な行為もまずパロディとして知りました。私の全ての思想行動はすでに誰かがどこかでやっていたことです。
存在価値を支える外部は最初からなかったのです。そんな私の存在を支えられるのは私と、私によって支えられている私的な価値体系・物語・信仰です。
その価値体系などがどれほど大きな規模のものであっても、それは私的なものでしかありません。

私が裏付けした私的な価値体系しか私を裏付けるものがないとき、その私の生死を超えてまでやらねばならないことの存在など、可能でしょうか。

苦しみながらそれでも生き延びて成し遂げるべきことを私は持っていません。
やりたいことがないわけではない。しかしそれを位置づけてくれる文脈はありません。
私の目標の根拠は私自身なのです。

生きていく目標もありません。(生きてさえいれば目標はありますが)。
遠くにある希望とか、理想とか、それは私を離れても存在しているのですか?
それは誰が支えているのですか?
神ですか?
神は誰が支えているのですか?

それでも、小さな小さな私的な物語を楽しみ、ささやかな信仰を支えにとりあえず明日は生きるだろう、明後日も。
そのように生きています。
私が死んだら悲しむ人がいて、私がいたらうれしいという人がいる、そういった私的な支え合いの中で生きています。
生きていたらやりたいことはたくさんあります。
でも生自体を支える根拠はありません。

私は自分の髪を自分で掴んで虚空の中に落ちていかないように支えているような気がします。小さな信仰だけがそれを可能にしているのです。

2002年3月18日(月)『八本脚の蝶』二階堂奥歯

 

私死者だわ。生きてないわ。息をするよりも早く、電車が走り、移動をしながら影をまきちらし、どこにも足跡を残すことはないまま海へと帰っていくつもり。光っている星の数が、少しづつ変化していることにも気づけないまま、私は死んでいくから、宇宙に少しだってかかわることはできない。人類史はどこかのだれが動かしていて。私は。ただそこであってもなくてもいい部品として生きている。

(中略)

存在って何。ライオンがキリンをかるよりも無意味な、私の裁縫や天体観測。せめてだれかを殺したり生んだりすれば、ちょっとは変えられるのかもしれなかった。

 

死者と死者『死んでしまう系のぼくらに』最果タヒ

 

 一本足せば死から最も果てである名前、なんて勝手な想像。

朗読をするのが楽しい。『死んでしまう系』の死者と死者、あとがきは何回も読んだ、あと2013年8月号の群像の「個人的な詩集」という特集に載ってる詩もよく読む、滑舌がよくないのでもそもそと読むけど詩はそんな風に読んでも別におかしくなく聞こえる。短歌はなんか難しい。

 

漫画をあまり読んでないけれど、本当に才能がある人にだけ許される視界の狭さ、『SUBARU 昴』曽田正人。身体表現うらやましい。