向かう人々 1

 手の内の文字を追っているうちに眠くなって自然にまぶたが下がり、開き、再び読み始めると、眠たいのに目をつぶる前まで読んでいたところは、ここは読んだとはっきりとわかる。読んでいた場所はすぐには探せないのに、文字を追うと読んだところとまだ読んでいないところの境目は、はっきりと、ある。そのことはいつだってすごく不思議で、内容は頭に入らなくても、読んだ、ということは分かる。読む前にはもう戻れない、と芯から眠い頭で考える。土日のショッピングセンター内のドーナツショップなんて、家族連れが多く、騒がしいのに、本を読んで眠くなる。逆にうるさいから眠くなるのかもしれず、あちこちで同時に起こる会話はそれぞれの内容は聞き分けられることなく、単なるさざめきとして耳に入ってくる。目が勝手に閉じ、開いて、続きを探してああここからだと見つけたとたんにまた目が閉じてしまう。そんなことを2、3回繰り返してから観念して本を閉じ、半分食べかけのドーナツとコーヒーカップの乗ったトレーをテーブルの自分から遠いところへ押しやった。しばらく寝ようと腕を組んで、首が痛くなるかもなとちらりと考えながらも下を向いて目を閉じた。騒がしいので、片隅で余計なことを考えつつ眠る、目を閉じる前に見えていた景色を少し思い出す。景色を思い出すと目にも意識がいくのか、目蓋のうらに、赤くもやもやとした景色が浮かぶ。右斜め前に座っている小さい男の子はずっと同じ姿勢で眠っていた。首が、心配になるくらい頭が横に傾いていた。向かいのテーブルに座っている十代の多分高校生な女の子は私も読んだことのある本を読んでいた。そんなことを考えているうちにいつの間にか完全に寝ていた。

 

 まだ冬至まで日があるのに日が暮れるのはかなり早くて、でもこれからまだ早くなる。6時でももう暗くて街灯も車のライトもついている。寒いと思って厚着をすると室内は暖房が効き過ぎるくらいだから、コートの下は薄着にした方がいい。今日の夕飯は何にしようか、南瓜を煮るのは冬至だ。さよの家で食べたポトフはポトフの味がした。私が作ると野菜のコンソメスープにしかならない。何かの実とか葉っぱとか入っているからちゃんと西洋の料理の味になるんだ。ハーブとかスパイスとかは名前さえわからない。

 ふっと目が覚めた、しばらくそのままの体勢で自分のスカートの柄を眺めつつ瞬きをした。急にピントは合わずしばらくぼんやりとした視界のままそこを見つめていた。単純化すれば千鳥格子になるような鳥の羅列だった。つい、と顔を上げると置いた本がなかった。机の向かいに誰かが立っていて、その人がページを繰っていた。でも不思議と驚くことはなく、それはこの人の顔をみたことがあるからで、その人はさっきまで向かいのテーブルに座っていた女の子だった。本を読むのが好きな人が他人の読んでいる本が気になるのはよく分かるから、そういうことだと思った。彼女ではなく他の人だったら図々しいとか感じたりしたかもしれないけれど、私は彼女がさっきまで読んでいた本が何であるか確かめるためにしばらくそっちを見てしまっていたし、その本を私は好きであったので、そんなことはなかった。彼女は私が起きてもこちらを向かず、悪びれるとかそんな様子もなく、私の方は彼女はそうは思っていないだろうとすでに無意識に理解しているようだった。それくらいに私たちは落ち着いていた。知らない人からは私たちは知りあい同士に見えるだろうと思った。だからやっぱり、動揺はなかった。つまり、私と彼女がこうして振る舞ってることはもう昔から決められていて、そのことを私たちはそのとおりに実行しているようなものだった。このことを不思議に思うことなく受け入れることができるのは、このことは決められていると考えるのが自然な気がした。これらはみな後から考えたことで、その時はただ、ぼんやりと眠かった。

 彼女は目次を見ていた、それから本文の最初の数段落を確かめるように見、奥付を見た。その動作を私は見ていた。私は座っていて、彼女は立っているので私からは手と顔がよく見えた。彼女の髪は肩につくくらいで整えられているようには見えず、毛先が外へ向いたり内へ向いたりしていた。店内は暖かく、眠気はだんだんと醒めてきた。目の前に人がいると何をしていいかわからなくなる。本は一冊しか持ってきていなかったし、他にできることは手帳を開くぐらいで、とりあえずぬるくて酸っぱくなったコーヒーを飲んだ。彼女に話しかけるのは憚られたけれど、かといって完全に彼女を無視したくはなかったから彼女から目は離さなかった。濃いモスグリーンのカーディガンの下に着ているブラウスに細かいタックが入っていて、良いものを着ているなと思った。今、隣のおばさん二人組の片方が「波動が」と言ったところだけ聞き取れた。彼女のしていることよりもその周りの情報の方が強く入ってくる。かといって、気が散っている訳ではない。気になり過ぎるくらいに気になっている。でも期待はしてはいけない。

 それはそんなに長い時間はかからなかった。彼女は元あったところに本を置き、何にもなかったように自分の席に帰っていった。実際、何も起こらなかった。彼女が近くにいた間、始終目は合わなかった。こんなもんだと思った。だから私は続きを読むため、さっきまで彼女の手にあったそれを取り続きを読み始めた。

 私の居たテーブルは二人組用で、片方はソファーでもう片方は椅子だった。私はソファー側に座っていた。何か視界を横切って目をやると、その空いている方の、私の向かい側の椅子に彼女は腰掛けたところだった。私の本を置いてから、席に戻った後、彼女は荷物全部とトレーを持ってこちらに来たのだ。その椅子には私のコートがかかっていたけれど気にする素振りも見せず、彼女のコートはその上にかけられた。彼女の荷物も私の荷物の上に無造作に置かれ、テーブルには彼女の食べかけとコーヒーと本が乗ったトレーが置かれた。乱暴にするので食器がぶつかって鳴った。いつの間にかさっきの隣のおばさんたちはいなくなっていて、店内の客足は落ち着いてきていた。彼女は何も言わず腰掛けた後、自分の本を開いた。上手く起こったことが飲み込めず、本を読んでいる彼女を見ていても何も言わないしこちらも向かない。別に気にすることもないのかもしれないと思えた。そこまで彼女を見ていた私も自分の本に目を落とした。時々ドーナツをちぎって食べ、コーヒーを飲んだ。やっぱり彼女は私の読んだことのある本を読んでいた。私たちは会話をしなかった。彼女は喋らない人なのかもしれないと思っていた。この店のコーヒーはおかわり自由で時々店員がテーブルを周り、注ぎに来てくれる。そこで「お願いします」と「結構です」という彼女の声を聞いた。私はその時「お願いします」と「大丈夫です」と言ったので、彼女も初めてともこの声を聞いたことになる。私たちは7時半頃まで店にいたけれど、彼女が帰ったのでしばらくして帰った。やっぱりここまでで二人の目は合わなかった。話もしなかった。

 そのまま帰るのはもったいないような気がしたのでショッピングモールを一周することにした。もうすっかり夜で窓の外は暗いけれど、室内はあたたかなオレンジがかった照明と実際効き過ぎるくらいの暖房で熱いくらいだった。12月に入ると街中がクリスマスで、妙な多幸感に包まれていた。なぜ楽しいのかわからないけれどなぜか楽しかった。名前も知らない女の子と、話しもせず、目も合わせず、ただ向かい合って本を読んだだけなのにあの時の空気が楽しかった。それが今もまだ体にまとわりついているみたいだった。あの妙な雰囲気が楽しいと思える自分に少し驚いた。決して高くはないけれどよく通る彼女の声を聞けたことを思い出した。ペットショップにいた犬たちはみな赤いリボンをつけていた。

 

 

2はこちら→向かう人々 2 - 無響サイレン