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向かう人々 2

短編

1はこちら→向かう人々 1 - 無響サイレン

 

 

 次の日は休みではないから休みでないときのいつもを過ごす。仕事場のトイレで昨日のことを思い出していた。でも自信がなかった。言葉を交わしていないだけでなぜこんなに自信がなくなるのだろう。あんなに近くに居て十分な時間を過ごしたのに、視線を交わしていない、言葉を交わしていない、それだけであれはどこかで読んだ話とか観た映画とかと変わらないものになる。頭の中だけにある記憶の中で、ある人と居たことの記憶を構成するには、その時点でたくさんの知覚を掴んでいないとすぐにばらけていってしまうんだろう。もしもう一度会えたら昨日のこともあったことになる。でもその次の時もまた目が合わず会話をせず、であったなら。それはそれで楽しいのかもしれない。意志疎通がとれない、ショッピングモールで会える生きてる幽霊。

 

 次の週の休みもドーナツショップに行った。彼女は居なかった。そこで私が過ごしている間に来ることもなかった。やっぱり幻みたいなものだったと思えた。そうすると余計にあの時のことが、私の身に降りかかったとは思えない、綺麗な、あの時限りの出来事のように思えた。クリスマスまではあと一週間で、今年はちょうど土日がクリスマスとクリスマスイヴの予定だった。来週はどこもかしこも人で一杯になる。このショッピングモールだってパーティーの買い出しの人だとかでたくさんの人が集まるだろう。みんなが浮き足立ってるあの感覚は熱があるみたいで、このモールの温度をあげるだろう。ハロゲンのスポットライトの下に立つと光の当たる自分の表面がちりちりと暖かいのとおんなじように、いろんな人がいろんな理由で居るこのモールは幸せとか不幸せとかなんにも関係ないみたいに、皆に均一に頭の上からなにか暖かなものがちりちりと降り注いでいる。そのちりちりは冬になると強くなる、私が暖房の暖かさと混同しているだけかもしれないけれどそれは確かにあると信じたかった。先週の犬たちは数が減っているような気がしてその時だけ何故かさみしくなった。

 さちのお弁当はいつも彩りが綺麗で、プチトマトでしか赤みを足せない私と違って、おいしそうなお弁当感が出ていてうらやましい。職場のラウンジで私たちは昼食を取る。食堂はおいしくないし、外にでるのもおっくうで、私たちはお弁当か駅で買ったパンとかおにぎりとかを毎日食べる。

「土曜さ、夜、ご飯食べようよ」さちは焼き鮭の皮をはがしながら言った。

「どこで」

「うち、海老焼くよ、鶏じゃなくて」

「いいね」さちのご飯はおいしい。パーティーをすると作り過ぎるくらいで、でも残りをもらうのが嬉しかった。「とのみ橋の駅裏にパン屋出来たの知ってる?行くとき買ってくよ」

「へー、どういうやつ?」

「堅くて黒いやつ、どっかでバケットも買ってこようか」

「いいよ、ラザニヤ作るし」

「ほうれん草入れてよ」

「もち、茄子も入れるよ」

「今思ったけどラザニヤに黒いパンって変かな」

「気にすんな、おいしけりゃいいんだよ。7時にうちね」

ご飯を口に放り込みつつ、ん、と返事をした。私とさちにとってはクリスマスとかクリスマスイブなんて、おいしいものを作ったり食べたりする口実のようなものだった。ある人たちにとってはとても意味のある日であったりするんだろうけど、ぴんとこない遠くでの話で、でももしかするとその人たちにとってももう、私たちのお正月みたいなものになっているのかもしれないと思った。自分でも変な喩えだとわかっていたから、さちには話さなかった。

 寒い、と思って目が覚めたら掛け布団がおなかのあたりまでめくれていた。さちのアパートに行くまでに本屋に行こうと思っていた。ここら辺で一番大きな本屋のあるとのみ橋の駅と、さちのアパートの最寄り駅の棚の谷は同じ路線だった。早めに出て本屋の近くの喫茶店でコーヒーを飲みたかった。出掛ける前に、すこし考えて赤に緑や黒やが入ったタータンチェックのコートを羽織る。ウールの太い糸で織られていて、膝のあたりまで長さがあるのでほとんど全身がその柄になってしまうのが恥ずかしいから、たまにしか着ないけれど気に入っていた。表面の毛羽がチェックの直線をやわらかくしていてそこが気に入ってた。外に出ると空気はきんと冷えていてすぐに耳がつめたくなった。

 年末に読む本を確保しようとしばらく新刊コーナーをうろうろしているとあの本の新装版が出ていた。ドーナツショップで彼女に読まれていたあの本が文庫になっていて、彼女のは図書館の本でハードカバーだったけれど同じやつだ。急に思い出して、自分の本と彼女のための本を買っていた。それから2階にある文具コーナーに紙を見に行った。包装紙というか千代紙の大きくなったものというか、そんなものを探していた。和紙に木版で絵柄が刷られた紙があって、他のものより少し高価だったけれど手触りがよくてそれにした。一面に角の丸くなった正方形が敷き詰められていて、その四角一つひとつに玩具や古い道具の絵が描かれている柄だった。自分にはさすがに可愛すぎるかと思ったけれど、四角の中に十二支が描かれているものは少し色味が落ち着いていて、さっきのとあわせてその2枚を買った。店に入ったときにコートを脱いだのにやっぱり店内は暖かくて、顔が赤くなっているのが見なくても分かった。時計を確認すると4時で、パン屋に寄るとしてもここを6時過ぎに出ても十分間に合う。本屋を出て、はす向かいにある喫茶店に向かった。

 喫茶店の地上部分は入り口だけで、ドアを開けるとすぐ階段があってそれを下るとわりと広い店内がある。地下にあるからか、すぐ目の前は車の往来が激しい道路なのに店の中は静かで、本屋が近いこともあって読書していたり書き物をしたり静かなお客さんが多い。私は大抵、決まった壁の近くの席に座る。今日はいつもより人が多くて、その席はもうすでに髪の長い女の人が座っていた。店は入り口側と奥のキッチン側の間が、その幅の半分くらいの壁で区切られていて、とりあえず見渡せる入り口側のスペースの壁際は全て埋まってしまっていた。奥に行こうと通路を通ると入り口側より暖房が効いていて顔の辺りに薄い布が被せられた感覚がした。

 最初は自信が持てなかった。さっき思い出していたから似ている人を見間違えたのかと思った。彼女は背の高いグラスに浮かんでいるソフトクリームを長いスプーンですくっていた。でもその間グラスの方は見ず、左手で押さえている本から目は離さないで、溶けてテーブルにこぼすんじゃないかというくらいゆっくりと口に運んだ。グラスはソーダの青で彼女のその動作で揺らされた氷がきらめいていた。居たんだ、こっちにも。自分で考えたのに、とっさに思ったこっちって、何のことだか分からなかった。彼女のテーブルは壁際で、彼女の椅子の向かいにはもう一つ椅子があって、私はそこに腰掛けた。この間と逆だ。

 「ずいぶんと、浮かれたものを飲んでる」彼女が顔を上げたところへ言った。テーブルの上にはクリームソーダと空のコーヒーカップが置かれていた。「幽霊かと思ってた」

彼女は片目だけで笑って答えた「わたしが?」

「居たのね」

「居るよ」

対話をすることで目の前に居る人の輪郭がここまではっきりとするのは初めてだった。あの時、目が合わなかったし話さなかったから。でも会ったことがないわけではなかったから初めての人と話すのとは違った。

「今度会えたら話をしようと思ってた、また会えると思っていたから」もう溶けかかって角がないソフトクリームをつつきながら彼女は話した。

「あの時も居たのね」

「うん、居たよ」彼女は続けた。

「あの時、私に話しかけなかったのはなぜ」

「本を見て、あなたとはまたどこかで会うと思っていたし、だから、」形のいい唇がソーダを吸う「あの時は目の前にいるだけでいいって、思ったから」

しばらく、雲を掴むような、きちんとした文章にならないような、そんな話を私たちはした。途中で注文を取りにバイトの男の子が来たので、ウインナーコーヒーを頼んだ。「浮かれてる」と言い返された。出されたウインナーコーヒーはカップの縁までクリームが渦巻きになっていた。微かにブランデーの香りがした。

 さっき買った本のことを思い出して紙袋をあさった。

「これ、渡そうと思って買ったの、ほんのさっき、あなたを思い出して」

それから可愛い方の紙を取り出して、それの上下を折って本と同じ高さにした。折っていない片方の端を折り曲げ、本の表紙にかけた。本屋の人みたいに手早くはできなかった。背に紙をまわし裏表紙ぴったりになるよう折り込んだ。まだ本に馴染んでいる感じはしなかったけれど、良い紙のカバーがかかった本は佇まいがしゃんとして贈り物にふさわしく見えた。あげて良かったと思えた。

「あげる」差し出すと、受け取った彼女はあの日と同じ動作をした。目次を見、最初の数ページを見、あとがき、奥付を見た。彼女がゆっくり静かに息を吸って、吐いたのがわかった。本を閉じ、千代紙の模様をぼんやり見ながら「ありがとう、」と呟いた。

 柱に掛かっている時計を見ると5時半で、温かい飲み物を飲んだこともあって頬がぼんやりと熱かった。私たちはしばらく話した後、お互い本を読んでいた。彼女はさっきあげたのを読んでいた。

「今日、これから予定は?」

「特には」

「イヴなのに?」

「そっか、だからこんなに街が、」

「冬休みで曜日が分からなくなってる」

「冬休みというか、もうずっと休みみたいなものだったし」

「うん?」

「学校適当にしか行ってないから」

「なるほど、大してあなたのこと知ってる訳じゃないけど、らしいね。」

「そう?真面目そうなのにってよく言われる」

「今夜、ご飯食べない?私の友達が作るの、海老焼くって」

「海老」

「どうせ作り過ぎてるから、きっと気に入る」

「料理が?人が?」

「両方」

「うん」「行こうかな」

「これは友達なのかね」

「私たち?」

「うん」

「私たちの関係が友達って形になるかどうかは分からないけれど、仲良くはなれると思うよ」「というか、もうすでに」

 会計を済ませて外に出るともう暗くて、気温もぐんと下がっていた。駅裏でパンを買って電車でさちの家に向かう。固くて丸いのとシュトーレンを買った。私と彼女とひとつずつ選んだ。パン屋から駅まで手をつないで歩いた。寄り道してワインを買ったので、時間には間に合うけれど予定より少し遅くなりそうで。